「なにか事がうまく運ばなかったら通訳者や翻訳者のせいにされる。それは通詞*の宿命だ。」
常々同僚に言うセリフだ。
覚悟をもって仕事に向かう姿勢を共有したいがためである。
そんな思いの奥底にはひとつの歴史的エピソードがある。
長崎奉行の切腹。
今を去ること215年前(1808年)、長崎港に一隻の外国船が入港する。
時節は初秋10月4日(旧暦8月15日)。
オランダ国旗を掲げたイギリス船フェートン号。
当然オランダ船だと思う幕府役人が入港手続きのため、オランダ語通詞とオランダ商館員2名を引き連れ小舟で本船に向かう。
幕府側の通詞はオランダ語通詞。片やイギリス船側は無論のこと英語。
もたもたしてる間にオランダ商館員2名はフェートン号側に拿捕されてしまう。
艦長とのコミュニケーションはどうしたのか。
フェートン号に乗っていたオランダ生まれの水兵メッツレを介して行ったという。
オランダのリーフデ号が大分臼杵に漂着したのが1600年、平戸から長崎出島にオランダ商館が移転したのが1641年。
当時の日本はヨーロッパ諸国ではオランダのみと通商を行い、同時に世界の学問も吸収していた。
必然的に不可欠な外国語は、それまではオランダ語である。
しかしヨーロッパ世界の趨勢は激動の渦中にあった。
産業革命が進行中のイギリスは、1815年ナポレオン戦争でフランスに勝利し、世界の四分の一を支配したと言われる大英帝国への道を邁進していく時期にあった。
結局フェートン号は食料と水を積み込むと、翌々日の旧暦8月17日早々に、今度は英国旗を掲げて日本を離れてしまう。
イギリスの偽装船入港から離日までの不手際の責任を感じて、長崎奉行松平康英は同日夜に切腹する。
この事件後、幕府は英語とロシア語の学習に力をいれるべく大きく舵を切る。
もしスムーズにコミュニケーションが取れていたならばと、改めてはるかなる侍に合掌したい。
*通詞:江戸時代の通訳のこと。世襲制。
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